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徒然覚書

学説の要約、個人的なメモなど。

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ヘーゲルの精神現象学

へーゲルの思想的関心の中心にあったのは常に
“神と人間の関係”と“宗教の過去と現在の姿への変容”であり、
豊かな歴史意識の中で『宗教』という概念の編纂について着目している。

ヘーゲルは宗教を「自然宗教」⇒「芸術宗教」⇒「啓示宗教」の3つに分類しており、
オリエンタルな世界からギリシャ・ローマを経てゲルマンの世界にいたるまでの
世界観の変容をうまくこのカテゴリに当てはめている。


■自然宗教
自然宗教とは、自然の中で暮らす民族が自然の中にある神を崇めるものであり、
ギリシャ世界以前の東洋世界に多く発生した。
ただの自然物が神となり宗教となるのではなく、その自然物がある地域に住む
同一の民族の共同生活において核心となるイメージと重なっていなければいけない。
例えば獰猛な一族であるなら、自らの気性の荒さや勇猛さを体現する狼や鷲を
宗教のモチーフ、崇拝の対象として設定し、これらを守護神と呼称している。
その民族の特色と崇拝の対象が照応でき、類似・同一とみてとれる部分が存在している。

しかし、人がより現代人としての「らしさ」を兼ね備えるようなり、
動物的段階を抜け出せば、人々の宗教に対する意識が推移していく。


■芸術宗教
 こうして植物や動物などが崇拝の対象になる時代が終わると、
人々は職人が作り出した造形作品という、技術を対象とした崇拝を行うようになる。
これが芸術宗教だ。例としてピラミッドやオベリスク等が上げられるが、
芸術宗教といえば古代ギリシャのものであるとヘーゲル自身は強く思っているため、
便宜的にギリシャの前の位置づけとしてエジプトの宗教は自然宗教と混同視されている。

芸術宗教でヘーゲルは主に、古代ギリシャの芸術と宗教の一貫性について着目している。
芸術と宗教は互に癒着し、芸術の中に宗教が・宗教の中に芸術が調和を持って存在していたので、
それを見つけ出すのは非常に難しい事だった。

また、こういった現実世界をひきずった芸術作品が溢れる社会では
超越的な神の存在を人々は必要とすることは少ない。
(非常に難解な考察のため、この章ではヘーゲルはやや歯切れの悪い文章となっている。)


またヘーゲルは芸術作品を三つに分類した。
1つ目は神託・賛歌・彫像・祝典などの「抽象的芸術作品」。
『供物の見返りとして神からの返礼と行為の証を受け取り、作業を通じて神との一体感を実感する』
『贈物による神への表敬が、そのまま、自分自身の富と装飾に満足感を抱くことに重なる』としている。

これに対し2つ目が「生きた芸術作品」とされる、オリンピア競技だ。
生身の体が美であり芸術であり、民族の神を最高度に表現していると述べているが、
神との関係を無理に表そうとしている感じがあり、ヘーゲル自身も訂正を加えている。

3つ目は叙事詩、喜劇、悲劇からなる「精神的芸術作品」である。
しかしこれも主役は肉体を持つ人間であって神々ではないため、
実質は宗教論というよりも芸術論・共同体論となっている。


さらにヘーゲルは古代ギリシャの美的世界の後に訪れたキリスト教の中に
美を越える宗教性を見出した。
ヘーゲルは青年時代からギリシャ文学に親しみや芸術的魅力や憧れを持っていたが、
そこから脱却し、ギリシャという共同体の崩壊からキリスト教の成立にかけての
歴史的な流れを弁証法的に見出した。


■啓示宗教
古代ギリシャの栄光が徐々に身を潜めたところにキリスト教が介入したとして
ヘーゲルはさまざまな点からキリスト教の独自性を褒め、これを広めようと推奨している。

ヘーゲルがキリスト教が独自的であるとする一つ目の理由は天地創造の理論について。
神が世界の構造を観念として作り上げ、観念としては説明不十分で
成り立たない部分がうまれたことにより人々は現実の存在への移行を余儀なくされる。
言い換えるならば、世界中の理性を理論として表した論理学的なものから、
自己を排除した純粋な論理が直接の存在として現れた自然哲学的なものへの移行、
それがヘーゲルの哲学論における論理学から自然哲学への移行と一致するのである。

二つ目は原罪の論理だ。
ヘーゲルは原罪神話を蛇の誘惑に負けた人間の弱さについて表す物語ではなく、
食料に恵まれ労働の必要性がない“楽園”を内部から突き崩そうとする
「人間が精神的な存在であるという事」を著したもの、つまり
人間が発達した物語であるとしている。

三つ目が最も重要である三位一体説である。
ヘーゲルはイエスを特別な人間として考えてはおらず、
「自己意識を持つ人間」の1人でしかない。
しかし、こういった人間としての形でこの世に神が現れることが重要であり、
あくまで特別な肉体ではなく普通の肉体をもつ普通の人間へ神が受肉することが重要なのだ。
神の本性と人間の本性は同じであり、
キリスト教はこのことを人類史上初めて啓示した宗教であるとヘーゲルは言う。

人間と神は精神的な統一を迎える事がこの理論で重要である。
あくまで普遍的な人間に神が宿る。
だからヘーゲルはイエスの死を「人は死ぬもの」として冷静に受け止めたし、
その後の復活のイメージも全く眼中にない。
一般のキリスト教信者にもイエスと同等の事が起こりえると考えることが大事であり、
自らのうちに神性が宿ることを自覚する、精神の発展がここに見られる。


宗教を「教祖や理念が違うだけで本質的なものは全て同じだ」と考えていたが、
こうして分類することで自然・芸術・啓示宗教のそれぞれに背景があり、
本質も異なるものである事がわかった。
また、体系別に部類しようとしたヘーゲルの成した功績は甚大である。
大学生のうちにこういった本を読む機会を持てたのはとても良かった。
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鶏の象徴するものとは

『光源が洞窟にこもってしまい、その扉を開けるために鶏を使った。』

日本、中国に共通して見れる鶏の役割である。
神話において鶏とはどういった鳥なのか。
これについて、谷川健一氏は「鶏型土器について」という論文の中で、項述べている。


◆日本書紀で見る一面。
アマテラスが天岩戸に閉じこもった時、思兼神は「常世の長鳴鳥」を集め互いに長鳴きをさせた。
この「常世」は「常夜」でもあり、その暗いというイメージから
「冥界」の類義語としての役割を果たしているという。
つまり、鶏は冥界の告知をする鳥であり、鶏を鳴かせたことにより

①神々の活躍する夜の時間が終わった。
②鶏を鳴かせ朝を招来する儀式が生まれた。

と主張している。


◆魏志倭人伝で見る一面。
『大鳥の羽を持って死を送る。その意は死者をして飛揚せしめんとす』という記述がある。
これは、人間の魂を運ぶのは鳥という考え方であり、世界各地の神話にその傾向は見て取れる。
それでは何故、中国・日本は鶏としたのであろうか。
それは鶏の特異性にある。鶏は他の鳥にはみられない「トキ」を作る習性がある。
(原文のまま「作る」と記載したが、おそらくトキとは明け方に発する泣き声のことであり、
トキを告げるというニュアンスが近いと推測する。)

また鶏は、暁を告げる前に死体のあり処を告げる鳥とされている。
そのため「常世の長鳴鳥」と称されるという記述もあり、昔の人々は暁闇の中でトキを告げる習性から
『太陽が再びかえり死者の魂が復活する事を告げる鳥』として認識を変えていったとされている。
谷川氏は鶏型土器の考察を交え最終的に、鶏とは

『死者の魂を運び、死体のおかれる場所を選定し、
人の罪や穢れを背負い贖罪の鳥として他界に追放される死の鳥』
『太陽の再生ならびに魂の復活を告知する生の鳥』

の、生と死の二面性を持つ鳥であるとしている。


この考え方は私自身も非常に納得できるものであり、
鶏が太陽の持つ「生と死の周期」を象徴させる存在であるという考えに落ち着いた。

太陽神話のまとめ

一.太陽神話研究の歴史
 《二十世紀前半》
 天体神話学派が生まれた頃から研究対象として着目されはじめる。
 パウル・エーレンライヒ・ヴィンクラー
 「神話は天体運行をモデル化したもので、太陽神話を中核に置く」

 《十九世紀後半~二〇世紀前半》
 歴史民俗学派が新たな特徴を提唱
 フロベニウス・シュミットら
 「太陽・月神話は特定の諸文化において特徴的に発展している」


二.太陽神の役割の変遷
  ●原始の太陽神
    鷹・甲蟲・牛・馬等の動物・有翼の円盤のような象徴的な形
     → 守り神・その種族の特性を象徴する神
         ↓
  ●次第に擬人化が進む
    太陽を宮殿とする人・太陽を乗り物とする人
     → 天上の神々の支配者・地上の生物の育成者として祈願の対象となる
        ↓
  ●太陽神が創造神・宇宙の主を兼ね、絶対的神威が称えられるようになる
    M.エリアーデ
   「太陽神の崇拝はもともと天上の至上神からの転化であり、その多くが
    統治権との結びつきが顕著である。」  
     → エジプト・バビロン・インド・インカでは王は「日御子」と称される・
     → ポリネシア諸島(ソシエテ・ハーヴェイ・サモア・ニュージーランド)
       台湾・琉球・朝鮮の東南~東亜諸民族にも同様の傾向が見られる。


三.太陽崇拝を持つ地域
   J.G.フレーザー
   「太陽崇拝は高度な文明を持つ地域の民族にのみ見られる」

   しかし必ずしも太陽神話の有無はこのソートに当てはまるわけではない。
   ・アメリカ平原地方クロウ族 … 太陽神を最高神とする
   ・アメリカ東南部族ユチ族  … 太陽神を最高神とする
   ・太平原諸族ブラックフット … 夏至の太陽踊り等の祭祀儀式
   ・太平原諸族テトン・シウ族 … 夏至の太陽踊り等の祭祀儀式


四.神格と霊格の差異
  太陽神話と太陽崇拝は必ずしもイコールではない

  太陽を崇拝していない場合
  ・ 太陽射落とし神話 … 東南アジア・中国
  ・ 太陽盗み神話 ……… 東南アジア・アイヌ・北アメリカ・インディアン
  → 太陽に霊格が存在しているだけであり、崇拝されていない
  (光る生き物・光熱のある物と認識)

  太陽を崇拝している場合
  ・ 光熱を大地の豊穣の源泉とみる
  ・ 神徳性恩恵を祈願・祭祀
  → 太陽に神格が存在している → 宗教的慣行の発生


■参考文献
古代日本人の信仰と祭祀『日本古代の太陽信仰と大和国家』松前健

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